産褥熱。分娩後、産婦の子宮が細菌に感染され、高熱症状が現れる病気を言います。今ではほとんどまれですが、消毒の考えがなかった19世紀には、人類の屠殺者と恐れられていた病気です。
消毒の考え方は、今は外科医のみならず、一般の人でも常識ですが、これはハンガリー人の産婦人科医、ゼンメルワイスが見つけました。
ゼンメルワイスは、オーストリアのウィーン大学の医学生として学び、産科病棟で働きました。彼が勤務し始めて1か月の間に、彼が担当した第1病棟では産婦208人のうち36人が産褥熱で亡くなりました。
その後、1年間の産褥熱による死亡者を数えたら451人に上っていました。
ところが、同じ時期に第2病棟の産褥熱による死亡者は1年間で90人でした。
ゼンメルワイスは、死亡者数の差と、第1病棟と第2病棟の違いを考えました。そして第1病棟は、医学生が実習生として加わり、第2病棟は助産婦が受け持っていることに気付きました。
さらに医学生達は、早朝に死体を解剖した後、病棟に向かうのが常であることにも着目しました。
たまたま、ゼンメルワイスは、同僚が死体解剖中に誤って手を傷つけ、そこが化膿して敗血症となり死亡するのを目の当たりにしました。
彼は、死体を解剖した医学生が自分の手や衣服に死体の毒を付けてしまい、その毒が産婦の産褥熱の原因になっているのではないかと考えました。
ゼンメルワイスは、ウィーン大学産婦人科のスタッフとなってから、お産を手伝う医学生に死体臭を除く物質(さらし粉)を使って手洗いすることを指示しました。その結果、産褥熱での死亡は劇的に減りました。
1847年、彼はこの消毒法を学会で報告して産褥熱が敗血症であると主張しました。しかし学会では全く相手にされず、誰もこの考えを認めませんでした。
なぜなら、この説を認めると、それまでの不名誉な記録(産褥熱による死亡者の多さ)を、暗黙のうちに医師の過失の結果と認めることにほかならなかったからでしょう。
彼は、失意のうちにウィーンを去り、ハンガリーのブダペストに戻り、ブダペスト大学の産科学の教授になりました。
教授になり、1861年、『産褥熱の原因と概念および予防法』という小冊子を発刊しました。ところが、この本も受け入れられることはありませんでした。
やがて彼は1864年頃から精神不安の兆候を示し、精神病院に入院。1886年、この世を去りました。
ゼンメルワイスが発見した消毒法は、英国の著名な外科医、リスターの登場で日の目を見ることになりました。1865年、フランスの細菌学者、パスツールの論文を読んだリスターは、腐敗が醗酵素で起こり、醗酵素は微生物であることを学びました。
リスターは、ヒトの体は無害で傷口から侵入する微生物に破壊的に働く物質があれば、微生物の体内への侵入を妨げると考えました。
彼は、フェノール(水彩絵具のような特有の薬品臭を持つ有機化合物。石炭酸)が下水管の悪臭を除くことに着目。外科手術のとき、フェノール水で器具や手、皮膚を消毒。手術後、包帯もフェノール水で消毒しました。
その結果、グラスゴー大学の外科手術の治療成績は画期的に向上しました。1867年、彼は、理化学研究所の小保方論文で有名になった科学雑誌「ネイチャー」と肩を並べる臨床系雑誌「ランセット」に報告しました。
しかし、やはりゼンメルワイスと同じようにこの方法は一般に認められませんでした。
その後、認められるまでに時間はかかったものの、次第にリスターの消毒法は広く認められるようになり、外科手術による死亡率は激減しました。
ゼンメルワイスと異なり、リスターはビクトリア女王からナイトの称号をもらい、男爵となりました。
現代の医学は、先人達の人生をかけた凄まじい努力と、苦労の基に成り立っていることを、この話は伝えているとおもいます。正しいことを主張し発表しても、学会はもとより?一般の人々から広く理解を得られるまでには相当な時間がかかることを教えてくれるようです。
今回の小保方論文事件?とは180度逆のお話ですが、ゼンメルワイスが発見した消毒法は当初学会では全く相手にされず、誰もこの考えを認めなかったのです。真実だったのに。