▽がん研究振興財団の統計によると、日本では乳癌の患者数は1980年から30年間で約5倍増加して、2011年に7万2千人を超えました。即ち、女性は生涯で12人に1人が乳癌になる計算になります。


▽乳癌は、何故、起こるか? なぜ増え続けるか? その原因は?といったところが、関心の的になっています。

▽私たち産婦人科医は、女性の生涯にわたり女性ホルモン(卵胞ホルモンエストロゲンと黄体ホルモンプロゲステロン)が、非常に大切な働きをしているかを日々経験しています。

▽女性ホルモンは、妊娠、分娩のみならず、思春期、更年期、また生殖可能年齢の月経に関わる諸問題や良性腫瘍の子宮筋腫など、女性の全ての健康問題に深く関わっているのです。産婦人科医療では、女性ホルモンは大切、かつ、最も頻繁に使用される治療薬です。

▽講座No.63で述べましが、女性ホルモンのピルを飲むと「癌や血栓が出来る」など、ネット上では全く根拠のない健康情報が溢れていることを指摘しました。女性を女性らしく、活力を与えている源泉のホルモン(ピル)を飲むのが、どうして危険なのでしょうか。科学的な根拠のない、でたらめな健康情報と断言します。

▽OC(低用量経口避妊薬、ピル)が、癌や血栓症の原因になる危険な薬剤とされるなら、女性が女性らしく生きる原動力である自らのホルモンが癌や血栓を作っていることにほかなりません。ピルとは、小さな薬という意味です。

▽女性の生涯で12人に1人が乳癌になるほどの高頻度の癌は、女性ホルモンを使用したからではないと考えないと、女性が女性として生きることを否定することになりかねません。

▽では、どのように考えたらよいのでしょうか。日本産科婦人科学会は、特に若い医師向けに研修ガイドラインを作成して、治療の基準にしています。2015年度版のOCガイドラインを丁寧に読むと、その答えのヒントが読み取れます。

▽OCと乳癌リスクの説明に次の様に記載されている箇所があります。1996年に発表された多数例の解析から、OCの使用で乳癌の増加傾向を認めるが、その増加はOC開始直後に増加するものの、中止後10年でリスク増加は認めないとしています。

▽さらに、このガイドラインの参考文献の中にピルを飲むと「癌や血栓が出来る」といった間違った健康情報に対し、“目から鱗が落ちる”という表現にピッタリの論文があります。2007年と2010年にBMJ(英国医学雑誌)に掲載された、英国の開業医による調査成績です。その内容を次に書きます。

ピルの投与は1968(昭和43)年に始まりました。以来、39年間にわたり、ビルを使わなかったグループとピルを使ったグループを追跡調査しました。双方のグループはともに23、000人。ピル非使用者(延べ378,006年間の観察結果)、ピル 使用者(延べ819、000年間の観察)という膨大な観察期間になります

▽その結果、双方のグループで乳癌の発症率に差は認められませんでした。それどころか、ピル使用群は死亡率が12%も減少したのです。ピル使用群では統計上有意な減少が次の疾患に認められました。大腸がん、直腸癌、子宮体癌や卵巣がんなど主な婦人科癌、心血管系疾患、虚血性心疾患、その他の疾患(呼吸器疾患、感染症など)でした。

また死亡率とピルの服用期間の関連性はないと結論付けています。

▽この膨大な数の解析を基に、英国医学雑誌の掲載論文は、ピル服用が39年という長期予後から死亡率を上げることはなく、健康維持に寄与しているという結論を導いています。

英国医学雑誌は2014年にも、英国の助産師によるピルの健康調査成績を掲載し、ほぼ同様な結果だったとしています。この健康調査は、1976-2012年の36年間にわたり、対象者は121,701人。うちピル非服用群63,626人、ピル服用群57,951人を比較し次の様に結論付けています。

▽全ての死亡原因に両群間で差が認められない。ピル服用群は、全体的には乳癌による死亡を増加させておらず、卵巣癌による死亡も減少させているとしています。

▽2015年度版のOCガイドライン解説の冒頭に1996年にそれまでの多数例のピルと乳癌リスクの検討成績から、乳癌はOC投与開始直後に増加すると述べています。このことから、ガイドラインは、OCはわずかながら乳癌発症リスクを高めるとしています。

▽この話も以前のブログで書きました。米国NIHが試みた更年期女性へのホルモン補充療法(HRT)で心血管疾患や脳卒中、浸潤性乳癌を増加させるため危険とする論文が発表されたことから、国内の開業産婦人科医でつくる日本産婦人科医会は2002年、私たち会員に注意を促す通達を出しました。

▽しかしながら、現在、米国NIHの更年期女性へのホルモン補充療法は危険とする報告には多くの問題点が分かっています。更年期女性へのホルモン補充療法にも女性ホルモンが使用されることから、OCと基本的には同じことがいえます。2002年当時、日本を含めNIHの報告から、世界中で女性ホルモンの使用がかなり控えられました。

▽その一方、米国医学会雑誌(JAMA)が2003年に掲載した論文によれば、HRTにより更年期女性が女性ホルモンを投与されると、非投与の人と比べて浸潤性乳癌(進行癌)は投与開始後4年ごろから増加するが、初期乳癌(上皮内癌)は非投与の人と比べて全く差はないと報告されています。

▽NIHの報告によって、世界で女性ホルモンの使用が控えられました。それが、どんな結果をもたらしたか。その変化を窺わせる成績が、2010年の腫瘍学専門雑誌(Annals  of  Oncology)で明らかにされています。フランスの2か所の癌登録施設が1990-2010年間の乳癌患者を解析した結果です。即ち、乳癌は1990年以降、浸潤性癌も初期乳癌(上皮内癌)も2003年まで右肩上がりで増加しています。ところが、2003年から2010年にかけて初期乳癌は右肩上がりで増加するのに対し、浸潤性癌は減少傾向を示しています。

▽この成績から言えることは、女性ホルモンは12人に1人という高頻度の乳癌の原因ではなく、浸潤性癌を増加させる原因と言えそうです。敢えて、少しへそ曲がり的な言い方をするなら、HRTやOCは、女性に宿命的な乳癌の早期発見につながっている側面があります。むしろ乳癌への自覚を促しているともいえるのではないでしょうか。

▽以前のブログで、女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが、がん予防のため39歳で卵巣を摘出したとニューヨーク・タイムズ紙が報じたことを書きました。米国の統計によれば、遺伝性乳癌・卵巣癌は乳癌患者全体の5%程度のようです。

▽最後に2015年度版のOCガイドラインの解説で少し違和感を覚える記載があります。日本人のOC使用の歴史は約14年と浅いと書かれています。果たしてそうでしようか。この際、この点を少し指摘しておきます。

米国の生理学者、GregoryGoodwinPincus(グレゴリー・グッドウィン・ピンカス、190367)博士が1954年、エストロゲンとプロゲステロンの合剤ピルを開発、最初の臨床試験を試みました。

当時、中南米(ラテンアメリカ)は爆発的に人口が増加していました。米国はピルを無償供与し、当時画期的な人口抑制法として注目されたのです。

▽私は1966年、名古屋大産婦人科医局(石塚直隆教授)に入局しました。そのころ、次の教授候補として期待されていた故飯田正章先生が、ピルの基礎研究に熱心に取り組んでいました。今も鮮明に覚えています。

▽まもなく、その薬剤はアノブラ―ルという製品名で発売され、多数の開業医を中心に使用されました。現在のピルはエストロゲンの含有量が20㎍と少なくなりましたが。エストロゲンの含有量が当時は50㎍(現在でもこの量の製剤も使用されています)。名古屋大産婦人科医局の中で中心的なステロイドグループの大学院生の研究テーマとして、熱心に研究されていました。実に名古屋大学では、昭和38年代の後半にピルの基礎研究がおこなわれていたのです。