2016年12月

Dr.水谷の女性と妊婦講座 No.86 HRT(ホルモン補充療法)は更年期女性の骨の改善に有効である

 私は、産婦人科医として50年を過ぎました。若いころ、不幸にして若い女性で両側卵巣摘出を余儀なくされた症例を幾多経験しました。40年以上は前の経験で、そのような女性がホルモン補充療法をしないと、あっという間に浦島太郎ではないのですがしわが増えて見た目に明らかに老化するのを患者さんとして経験しました。そのころからこのような臨床体験の上から。HRT(この場合は、若い女性が、手術で更年期?)の必要性さらには安全性を確信していました。

しかし、日本産婦人科医会は2002年、米国NIHが試みた高齢女性へのホルモン補充療法で心血管疾患や脳卒中、浸潤性乳癌を増加させるため危険とする論文が発表されたことから、我々に注意を促す通達を出しました。高齢男性の男性ホルモン剤使用による副作用(心臓発作や脳卒中)への警告と類似することです。

私は、その頃も殆どの産婦人科医が当時ホルモン補充療法を忌み嫌い、罪悪視する環境の中でも、私のクリニックではホルモン補充療法を継続してきました。現在、米国NIHが試みた高齢女性へのホルモン補充療法は危険とする報告は誤っていたと修正されています。

私の女性のホルモン補充療法の長きにわたる経験から、ホルモン補充療法は少なくともバカ売れしている健康食品やビタミン剤よりは、確実に皆様の健康維持の手助けになる手段です。

本年11月の米国内分泌学会の雑誌に以下の事実が報告されました(Journal of ClinicalEndocrinology & Metabolism

HRT実施により、非実施の場合に比べ、骨量だけでなく骨微細構造の改善も期待できるとの研究結果が明らかになったのです。スイス・ローザンヌ地方在住の50-80歳の女性1279人を含むコホート(特定集団を一定期間調査し、疾病の発生率を比較する)による横断研究。

研究グループは同コホートを(1)追跡期間中にMHTを実施した女性(22%)、(2)過去にMHTを実施した女性(30%)、(3MHT非使用女性(48%)―の3群に分類。MHTの骨の健康状態への影響を評価した。評価には二重エネルギーX線吸収測定法(DXA)による骨密度評価と堂測定値に基づき、骨の微細構造を評価する海綿骨スコア(trabecular bone score)を算出した。同スコアは閉経後女性の骨折リスク予測に用いられる。

 現在のHRT使用女性の海綿骨スコアはHRT非使用女性に比べ上昇していた。全測定部位(腰椎、大腿骨頸部、大腿骨近位部)の骨密度は、現在のHRT使用女性で過去のHRT使用女性・HRT非使用女性に比べ、明らかに増加していた。なお、過去のHRT使用女性においてもHRT非使用女性に比べ、骨密度の増加および海綿骨スコアの上昇傾向が認められた。なをHRTの期間による各種骨評価指標の差は見られなかった。

この研究からHRTは骨量や骨構造をも改善する可能性があること、また、HRT中止後も2年以上は骨へのベネフィットが持続することが示された。

 

 

Dr.水谷の女性と妊婦講座 No.85 鉗子の歴史

 

▽鉗子。「かんし」と読みますが、皆さんは、どういう器具を真っ先に想像しますか。恐らく、大半の人は、手術の際に使われるハサミに似た様な医療器具を思い起こすのではないでしょうか。難産で分娩が進行しない場合に古くから使用されてきた産科器具です。

 

▽古くて、表紙がぼろぼろになった上下2冊の薄っぺらな本が手元にあります。タイトルは『産科手術書』( 安藤畫一, 尾島信夫共著 )。父が愛用していました、医学書専門の出版社「鳳鳴堂書店」が1950年、初版を発行しました。著者の安藤畫一(かくいち)先生は慶応大教授。国内初の人工受精児の誕生に関わられました。尾島信夫先生は聖母病院(東京都新宿区)で国内で初めてラマーズ式の分娩を採り入れた産婦人科医として有名です。

 

▽名著ですが、何せ初版の発行から65年経っています。街中の書店からは消えているでしょう。試しにパソコンを使って、1200館以上の大学図書館や都道府県立図書館、専門図書館などの蔵書約1億冊を検索してみました。すると、1955年10月に増刷された第4版が、開智国際大図書館(千葉県柏市)、鹿児島大付属図書館桜ヶ丘分館、東北大付属図書館医学分館、名古屋大付属図書館医学部分館保健学図書室、新潟大付属図書館にありました。

 

▽少し脱線しました。本線に戻します。鉗子分娩術の師匠はもちろん父ですが、この名著からは鉗子手術の理論的なポイントを学びました。「感謝すべき、単純な分娩介助器具」。安藤先生が、こう表現されている鉗子の歴史をたどった後、鉗子を使う分娩術に進んで行きます。

 

▽鉗子が登場するまで、難産で娩出困難な胎児は、頭に鈎(かぎ)をかけて牽引して取り出していました。いかにも残酷な、この方法しかなかったのです。しかも胎児はもとより、母親の命も危険にさらされます。そういう時代が16世紀まで続きました。

 

▽1569年。日本は戦国時代のさ中。織田信長が上洛し、室町幕府将軍、足利義昭のために御所を建てた年です。この年、イギリスに亡命したフランス人医師のウィリアム・チェンバレンと2人の子供ピーター・チェンバレン兄弟が、ロンドンで産科医として成功しました。兄弟の弟の方の子供、ウィリアム・チェンバレンの孫です。彼もピーター・チェンバレンと名乗っていますが、祖父や父が考案した鉗子と使用方法を秘法にしてしまい、チェンバレン家で独占しました。

 

▽これが、鉗子の歴史の幕開けです。ただ、これらの事実はウィリアム・チェンバレンの孫、ピーター・チェンバレン2世が没したロンドンの自宅の屋根裏部屋から様々な形の鉗子が発見されて初めて明らかになりました。

 

▽ピーター・チェンバレン2世の子供ヒュー・チェンバレンも高名な産科医でした。彼は、オランダ人の産科医ロジャー・ロンフリゼンに秘伝だった鉗子を売却しました。このロンフリゼンを介してアムステルダムの医科大学にウィリアム以来の秘伝が伝わり、医科大学の卒業生に開業許可を与える際、ヒュー・チェンバレンが鉗子を高値で売りました。秘密厳守を条件にしたのは言うまでもありません。

▽後年、この“秘伝”は鉗子の片方のみだったことが判明しました。ロンフリゼンがヒューに騙されたのか、医科大学が卒業生を騙したのか。今もって謎のままです。

▽ヒュー・チェンバレンの子供ヒュー・チェンバレン2世(1664-1728)は博愛の人でした。父から譲られた鉗子で金儲けするような発想はなく、惜しみなく一般の産科医に鉗子を広めました。その結果、英国では1730年ごろ、都市や農村を問わず、鉗子が一般的に使われるようになりました。

▽日本は江戸時代。テレビの時代劇「暴れん坊将軍」でお馴染みの徳川吉宗が将軍だったころです。ウィリアムから数えて4代目。チェンバレン家秘伝だった鉗子と使用方法は、やっと一般の産科医でも使えるようになったのです。この間、160年ほどの歳月が流れていました。

 

▽チェンバレン家の鉗子は、レストランのサラダバーで野菜をつかむサーバーに似ています。その後、パリの フランスの高名な産科医(レベール)が1747年、ロンドンのウィリアム・スメリが1751年、 それぞれに改良した鉗子を発表しました。レベール鉗子はフランス型鉗子の原型、スメリ鉗子は英国型鉗子の原型です。そして2つの鉗子は、米国で用いられるシンプソン鉗子の原型となりました。

▽改良はさらに続き、600種類を超える鉗子が作られました。このうち最も画期的なのは、タミエが1877年に考案した応軸鉗子でした。骨盤は、断面を表現すればハート型です。中心点は入口から出口までほぼ180度回転しています。その骨盤の中心の自然 屈曲に対応した形の応軸鉗子はドイツで広く使われました。そして日本に伝わって普及しているネーゲレ鉗子の原型になりました。英国とフランス双方の流れが再び合流して生まれたのがネーゲレ鉗子なのです。

 


 

 

Dr水谷の女性と妊婦講座 No.84 鉗子の思い出

 

▽父は43歳で三重県桑名市の大政翼賛会から赤紙が届き、中国・蘇州に軍医として派遣されました。戦時中、家族は金沢市へ疎開しました。終戦翌年の昭和21年春、父は背中に陸軍の背嚢一つを背負い、ボロボロの軍服姿で疎開先の金沢に戻ってきました。

▽桑名市は焼け野原になっていましたが、一家で金沢から帰郷しました。父が精魂を込めて建てた病院は、焼けた瓦があるだけでした。その瓦が残る土地を、父はスコップで掘り起こし、懸命に整地していきました。

▽そこにバラックを建て、病院を再開しました。鉗子入りの往診鞄を持ち、夜中は中古自転車に乗って走り回っていました。その後、スクーター、さらに戦前製の中古自動車で往診していました。私は、中古自動車の助手席に乗って、田舎の往診によくお供しました。

▽ある日、夕方の往診にお供しました。往診宅で父が鉗子でお産の介助をしようとしたとき、鉗子がいつもの鞄に入っていないと気付きました。ポンコツの中古車で田舎のガタガタ道を走ってきたのですから、往診宅近くの道に落としたのかも知れません。私は、往診宅の方と一緒に明かりをともしながら、必死に鉗子を探しました。

▽大学の高学年になると、父の鉗子分娩にしばしば立ち合い、父の言葉と自分の眼で視て、鉗子分娩のコツを学びました。大学院時代は、ホルモン測定の基礎的な研究とアルバイト先の病院の当直で多数の分娩を介助しました。大学院修了後、現名古屋医療センター(旧国立名古屋病院)に勤務しました。赴任すると、早速、当直が週1-2回あり、分娩が業務でした。

▽当直で鉗子分娩が必要な際は、上司の部長に連絡して待機しろと言われました。最初の分娩時は部長立ち合いで鉗子分娩をしました。その時、部長から「今後は君の判断で鉗子分娩をしても良い」とお墨付きをいただきました。

▽実は、私が赴任する少し前、当直医の鉗子の使い方がまずかったため、鉗子分娩した赤ちゃんの眼球が眼窩から飛び出す大事故があったそうです。その話を聞いたとき、私は、部長から鉗子の腕前をチェックされたと気付きました。

▽その後、静岡済生会病院に転勤しました。この病院でも多数の鉗子分娩で難産に対処しました。お粗末な分娩台でした。鉗子分娩で力を加えて赤ちゃんを牽引すると、その度に分娩台が回転します。赤ちゃんが「おぎゃー」と生まれるころは、分娩台の角度は相当移動していました。鉗子分娩の牽引は、結構、力仕事なのです。最近では、産婦人科は女性医師が増えました。女性医師には鉗子分娩でも難儀する症例には男性医師の手助けが必要かもしれません。

 

▽父は分娩の往診にタクシーを使う時がありました。なぜかタクシーの運転手さんは馴染みの方でした。その運転手さんが「あなたのお父さんが装着した鉗子を、私が牽引したこともあります」と話した時は、さすがに驚きました。しかし父が分娩のトラブルを起こしたことはありません。タクシーの運転手さんに、鉗子分娩のコツをよほどうまく教えていたのでしょう。

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