▽英国の医学雑誌『ランセット』にホルモン補充療法(HRT)を閉経前後に行うと、浸潤性乳がんが増えるとする論文が9月に発表されました。英国の癌の疫学研究*者の論文です。


▽がんを発症するリスクのうち最も大きいのが個人の家族歴、即ち遺伝素因です。これ以外、環境要因、例えば、肺がんに対する喫煙の害などが知られています。


▽HRTは、女性ホルモン(卵胞ホルモンのエストロゲンと黄体ホルモンのプロゲステロン)が使用されます。女性ホルモンは、女性のライフサイクル全ての健康問題に深く関わっています。女性ホルモン製剤は、女性の健康と病気の医療に携わる産婦人科医に必須の治療薬です。


▽女性ホルモンレベルの変化と密に関連する更年期障害(不眠、ホットフラシュ、気分の落ち込みなど)は時に女性にとって深刻な問題となります。その治療にはHRTが極めて有効で過去何十年も安全に使用されてきました。


▽2002年と2004年に米国NIHがHRTは心血管疾患や脳卒中、浸潤性乳癌を増加させるとする論文を発表したのを機に、HRTは世界的にその使用が控えられるようになりました。疫学研究*、特に癌など深刻な疾患への研究は、その結果が臨床医療に重大な影響を及ぼすため、臨床医は研究の意味をよく理解し、その成績を批判的にみる必要があると思います。


▽今回の論文(1)が掲載された同じ雑誌に、カナダの医師からこの疫学論文に対するコメントも掲載されています。(2)

その内容を簡単に紹介します。2002年と2004年に米国NIHのHRTは危険と指摘する論文発表後、HRTの治療患者は減り、乳がんの発症も減少しました。米国NIHの発表は、HRTによる乳がん発症の恐怖心を惹起させ、患者と医師にHRTを敬遠させることになったとしています。


▽HRTによる乳がん発症への恐怖心が、更年期障害に悩む数百万人の患者が、その治療に最も有効なHRTを拒否あるいは拒否される事態を招きました。カナダの医師は、患者がHRTを避けることで更年期障害の症状で被る苦しみ、骨粗しょう症の進行、そして心血管疾患やアルツハイマーなど、HRTでその進行が防ぐことができる病態の悪化などのマイナス面と、HRTによるがん発症の危険性のリスクを正しく評価する事が大切であると暗に今回の論文を批判しています。

 

▽更年期女性へのHRTも、OC(経口避妊薬=ピル)も、女性ホルモンを使うため、それに伴う副作用は基本的には同じです。それでは、ホルモン療法(HRTやピル)は乳がんのリスクを高める因子になるのでしょうか。少し古いデータですが、ピル服用者は世界で1億500万人以上に上っています。


▽2007年と2010年に英国医師会雑誌(BMJ)に掲載された、英国の開業医によるピルの副作用調査の成績が、ホルモン療法の安全性の理解に役立ちます。ピルの投与は1968年に始まりました。以来、39年間にわたり、ビルを使わなかったグループとピルを使ったグループを追跡調査しました。双方のグループはともに2万3000人。ピル非使用者(延べ378,006年間の観察結果)、ピル使用者(延べ819、000年間の観察)という長期の観察期間になります。


▽その結果、双方のグループで乳癌の発症率に差は認められませんでした。それどころか、ピル使用群は死亡率が12%も減少したのです。

ピル使用群では統計上有意な減少が次の疾患に認められました。大腸がん、直腸癌、子宮体癌や卵巣がんなど主な婦人科癌、心血管系疾患、虚血性心疾患、その他の疾患(呼吸器疾患、感染症など)でした。

しかも死亡率とピルの服用期間の関連性はないと結論付けています


英国医師会雑誌(BMJ)は2014年にも、英国の助産師によるピルの健康調査の成績を掲載し、ほぼ同様な結果だったとしています。同調査は1976-2012年の36年間にわたり、対象者は12万1701人。うちピル非服用群6万3626人、ピル服用群5万7951人を比較し次の様に結論付けています。


▽全ての死亡原因に両群間で差が認められない。ピル服用群は、全体的には乳癌による死亡を増加させておらず、卵巣癌による死亡を減少させているとしています。この膨大な数の解析を基に、英国医師会雑誌(BMJ)の掲載論文は、ピル服用者の観察期間が39年という長期の観察からピルは死亡率を上げることはなく、健康維持に寄与しているという結論を導いています。


▽さて、今回の論文も米国NIHの報告と同様、HRTは、浸潤性乳がんを増やすとしています。米国医師会雑誌(JAMA)が2003年に掲載した論文でも、HRTは投与開始後4年ごろから浸潤性乳がん(進行がん)を増やすものの、初期乳がん(上皮内がん)は非投与の人と比べて、全く差はないと報告しています。


▽がんはまず初期癌(上皮内がん、非浸潤がん)として発症します。一方、浸潤がんが増えるということは、もし何らかの原因でがんができるとその進行が促され、浸潤がんとして進行させることを意味します。ですから、乳がんがなぜ起こるかを調べるには、上皮内がん(がんの発症)とHRTの関連を調べねばなりません。


▽その回答は、フランスの2か所のがん登録施設が1990-2010年間の乳がん患者を解析した結果が明らかにしています。即ち、乳がんは1990年以降、浸潤性がんも初期乳がん(上皮内がん)も2003年まで右肩上がりで増加していました。ところが、NIHの中間解析の後(がんの恐怖からHRTが減少した)、2003年から2010年にかけては、初期乳がんは以前と同様右肩上がりで増加したのに、浸潤性がんは減少傾向となったのです。HRTの減少が、上皮内がんの発症と関連しないことが示唆されたわけです。


▽これらの論文から、女性ホルモンは乳がんの進行を促すものの、乳がんの原因とは断定できないといえそうです。さらに言えば、HRTやOCは、初期乳がんの早期発見に役立っている側面があると言えるかも知れません。

 

 

文献1.Lancet 2019,394:1159-68

  2.Lancet 2019,394:1116-18

 

*疫学研究とは、病気の原因である可能性を持つ要因へのばく露の有無などの研究です。病気の原因は単一ではありません。疫学研究の理解で重要なことは、原因の探求といっても、特定の要因のばく露を受けた人は、その病気に100%り患し、ばく露を受けなかった人は100%その病気にり患しないというような関係を明らかにするのではないということです。特にがんでは、そのような状況は現実的にほとんどありえません。