臨床医学とは、病気で苦しむ患者さんと日々向き合い、病気の治癒を願い、地道な努力をする仕事です。

父が生前、臨床医は国手(こくしゅ)”と呼ばれていると話していました。病気で苦しむ患者さんを、国に変わって治療する職業という意味なのでしょうか。

ところが、最近の目覚ましい生物学の進歩とともに、臨床医学とそれを支えてきた基礎医学との間に大きな乖離が生じているようです。

分かり易いように、父が医者になりたてのころの話をします。
1900年、オーストリア生まれのユダヤ人、カール・ラントシュタイナーがヒトのABO式血液型を発見しました。そのあとすぐ日本でも、旧制金沢医大(現金沢大医学部)の古畑種基教授らの手で血液型の研究が進められました。

父は、古畑教授の下でB型の研究を担当しました。動物やヒトのB型血液の研究成果をまとめて、金沢医大から1933年に医学博士号を授与されました。

その後、現在の名古屋市立大の前身である、名古屋市民病院の産婦人科設立に加わり、産婦人科医として働きました。当時、臨床医学と基礎医学の距離はありませんでした。父は「当時は名古屋市民病院で輸血の出来る医師がいなかったため、金沢医大で研究した基礎医学が大変役立った」と私によく申していました。

私は1966年、名古屋大医学部を卒業しました。1年のインターンの後、名古屋大医学部産婦人科教室に大学院生として所属しました。当時の教授は、絨毛癌が専門でした。絨毛癌というのは、胎盤の癌と考えてください。病室には常時20人前後の絨毛癌の患者さんが入院していました。

この癌は胎盤から出来る癌です。皆さんは妊娠診断薬をご存じと思いますが、この検査の反応を陽性にするホルモンである胎盤性ゴナドトロピン(生殖腺刺激ホルモン)が、患者さんの尿や血液の中に排出されます。このため、絨毛癌の患者さんの診断や治療の目安を立てるには、胎盤性ゴナドトロピンを測るのが必須になるわけです。

今、皆さんは薬局で妊娠診断薬試薬を容易に手に入れることができます。妊娠診断薬試薬で陽性になるのは、胎盤性ゴナドトロピンが出てきているという事なのです。妊婦さんの尿をウサギに注射しますと、ウサギは排卵します。ウサギの排卵を開腹して観察する方法:これを生物学的妊娠診断法とよびまして、この方法は太平洋戦争の前から、絨毛癌の患者さんの診断や治療に広く行われていました。皆さんが薬局で買える妊娠診断薬試薬の方法は如何にも簡単ですね。この方法は、免疫学的妊娠診断法(試薬)とよばれます。

私が名古屋大医学部産婦人科大学院生時代には、この方法(免疫学的妊娠診断法)による、胎盤性ゴナドトロピンの測定は日本では大阪大、九州大、そして名古屋大の産婦人科教室でしかできない、特殊な(新しい)方法でした。この方法はそれまでのウサギによる測定と比べて、胎盤性ゴナドトロピンの量が正確に、またその測定システムが出来ておれば、簡単に多数の尿を測定する事が出来るのです。

この画期的な方法は、1960年、スウェーデンの基礎医学者(ワイドら)が開発したばかりの方法でした。名古屋大の産婦人科教室では、彼らの論文を参考にして、測定のための試薬を調整していたのですが、当初はなかなか論文のようにはうまく行きませんでした。先輩の先生方の必死の努力の結果名古屋大学産婦人科教室ではこのホルモン測定が何とか患者さんへの応用が出来るようになっていました。私の仕事は、教授回診に備えて多数の尿検体から測定したホルモン値を準備するのが日課でした。絨毛癌は悲惨な病気で、分娩後の若い女性が大勢亡くなられていました。

当時の教授は、この方法で患者さんの診断・治療に大変な努力をされました。名古屋大学産婦人科教室の絨毛癌治療分野への貢献は極めて大きく。その結果、35年以上まえには、日本では絨毛癌はほとんど存在しない癌になり、治癒する癌となったのです。

私は、いまでも、この基礎医学を応用した臨床に従事する仕事に携われたのを誇りに思っています。そんな検査試薬は、薬局ですぐ買えるじゃないかと思われる方もいらっしゃるでしょうが、当時は大変な苦労をしてこのホルモンを測定したのです。

妊娠診断薬の試薬を使われる際は、この苦労話を少し思い出してください。

さて、前半の話は、輸血の臨床。後半の話は、癌などで使用されている腫瘍マーカーの走りと考えてください。

このように、基礎医学は患者さんのためになってこそ、その存在意義があると私は考えています。

大学院生時代の経験から、私は病気の診断・治療への基礎医学の応用を、その後の臨床に採り入れてきました。その一つが、妊娠中毒症や切迫早産のマーカーとしての、妊婦血のP-LAPの測定です。

さらに基礎医学と臨床医学の懸け橋となる研究発表の場を提供するため、名古屋大助教授時代に現在の日本病態プロテアーゼ学会(理事長:小林浩奈良県立医科大学産婦人科教授)の前身の研究会を立ち上げました。主に東京大を中心にした高名な基礎医学分野の先生方から力添えしてもらいました。お蔭様で今年も8月8日から2日間、大阪市で学会の総会を開きました。数えると19回目になっています。

ただ残念ながら、現在の日本では臨床医学と基礎医学の距離は離れて行っているようです。何故なのでしょう。臨床医が日々の臨床で忙しく、基礎的な勉強をしていないのでしょうか。

それとも、基礎医学があまりにも進み過ぎて、臨床を返り見ていないのでしょうか。

一つ言えることは、今の日本の基礎医学をリードする著名な先生方は、医学部での勉強をしておられない方々が多いということです。患者を診ずして、医学はあり得ません。

基礎医学の優れた先生方には、患者さんを治療する臨床あっての基礎医学であることを、しっかりと心に焼き付けてほしいのです。

また巨額な国家予算投が投入されている基礎分野への補助金を配分する行政の方々も、本年1月1日のP-LAPブログに書きましたように、米カリフォルニア大バークレー校のランディ・シェックマン教授が、英ネイチャー誌を批判された事、すなわちネイチャー誌は、「人目を引いたり、物議を醸したりする論文を載せる傾向がある」との見方を示し、が注目されやすい流行の研究分野を作り出すことで、その他の重要な分野がおろそかになる」と問題提起ことをこの際良く考えて頂きたいとおもいます。さらに今回の理研小保方論文のスキャンダルはまさにシェックマン教授の警告が正鵠を得たものであったのは皆様マスコミのおかげで良く理解されたとおもいます。

再生医療で一儲けしようとお考えの日本の企業の方々も、医療は金儲けではないことを今一度十分お考えください。