▽『週刊ダイヤモンド』という有名なビジネス雑誌があります。その611日号がiPS細胞を大々的に取り上げていました。こんな書き出しで始まります。

▽「一昨年、iPS細胞 を患者に移植する初めての手術が成功、実用化に向けた第一歩となった。製薬会社をはじ めとする企業の参入も相次ぎ、iPS・再生医療市場はがぜん盛り上がりを見せている。

 「明るく見えるようになった。特に白がはっきり見えるようになった」。世界で初めてiPS細胞を使った目の手術から1年半。手術を受けた70代の女性患者はこう話しているという。

▽その後、iPS細胞に対する先進各国の資金投入競争と続きます。要旨を紹介しましょう。

▽幹細胞・再生医学研究の今後の方向性を議論した文科省の科学技術・学術審議会研究計画・評価分科会の「今後の幹細胞・再生医学研究の在り方について」(平成2521日)によると、再生医学関連の研究予算は、我が国の約100億円(平成24年度)に対し、米国はNIH(国立衛生研究所)の年間予算だけでも約900億円。資金の投入量は、米国が他国を大きく引き離し、NIHは平成2410月、再生医療用iPS細胞の製造をスイスLonza(ロンザ)社、フランスCellectis(セレクティス)社に委託すると決定するなど、iPS細胞を用いた再生医療への取り組みも加速している。

▽そして最後は、近未来の巨大市場を描いてみせます。

▽現時点ではiPS細胞をはじめとする再生医療の市場規模は、世界の医薬品100兆円の1%にも満たないが、経済産業省の予測では、20年に1兆円、30年に12兆円にまで拡大する。

▽これなら、政府の「日本再興戦略」は大成功。アベノミクスで行き詰まり気味の三本目の矢「成長戦略」も大当たりです。

▽しかし残念ながら、どう考えても、私はそうは思えないのです。

まず、特集の書き出しです。移植手術で患者の視力(明るさ)があたかも改善されたように読めますが、移植手術は本来、安全性を確認するためでした。大変、誤解を生みやすい表現です。iPS細胞の移植で眼の機能が改善したわけではありません。

▽患者のiPS細胞から作った眼の一部の細胞のシートを、患者に移植。発癌性などの「安全性のエンドポイント(評価項目)」の確認を目的とした手術だったはずです。

▽移植手術を手掛けた理化学研究所(理研)の高橋政代プロジェクトリーダーは、第1例の結果からiPS細胞を使った治療のリスクについて、「安全性のエンドポイント(評価項目)を達成できた意義は大きい」としています。

▽ところが、当初計画では移植手術は6人に試みることになっています。多くの患者さんたちが、「次は自分の番」と胸を膨らませたはずです。

▽そういう中、iPS細胞を使った2例目の網膜移植手術が延期されました。日本経済新聞によると、患者から作製したiPS細胞に複数の遺伝子変異が見つかるなどしたためだそうです。

高橋さんの研究チームは2例目も初回例と同じ方法で移植する方針を立てました。そして昨年のうちに患者の細胞からiPS細胞を作り、網膜細胞を育てていました、

▽ところが、2例目に使うはずだったiPS細胞の遺伝子を解析したところ、がん化に関わるとされる複数の遺伝子変異が見つかったとされています。

▽今後、高橋さんのチームは、京都大が備蓄している他人から作ったiPS細胞を使って臨床研究を続ける考えのようです。備蓄細胞は遺伝子変異が少ないことを既に確認しているそうです。しかも必要なときにすぐ使え、コストも大幅に削減できるメリットがあるとされています。

▽免疫反応は、細菌やウイルスなどを異物とみなし排除しようとする機構です。この機構は、治療のために移植された他人の細胞に対しても、多くの場合は拒絶反応してしまいます。

▽iPS細胞が脚光を浴びたのは、自分の体細胞から作ったiPS細胞を利用することで、拒絶反応が起きない移植医療が可能になる点でした。高橋さんのチームは、なぜこの夢を捨て、他人から作ったiPS細胞に切り替えて2例目の移植手術を実施するのでしょうか。

▽一時、「クローン人間」という言葉が流行りました。ある意味、再生医療の究極の姿だと思います。

1997年、世界的に権威のある学術雑誌の1つ『Nature』の表紙を、「クローン羊ドリー」が飾りました。クローン技術の全ての始まりです。不老不死は実現するのか。クローン人間は実現するのか。「ドリー」誕生に世界中の人が夢を一気に膨らませました。

▽しかし「ドリー」は老化が早く、肺の疾患を患っていました。普通の羊の寿命の半分の若さで安楽死という結末を迎えました。「ドリー」の早すぎる死の原因は、クローン技術の重大な欠陥を浮き彫りにしたようです。

再生医療の理想は、免疫抑制剤を飲み続けることもなく、他人の臓器を待ち望むこともない姿です。だから、拒絶反応のない自分の細胞から作った心臓、腎臓、肝臓などを移植できる素晴らしい治療法として期待されているのです。

▽生命は受精卵が分化して人となります。その理屈で、iPS細胞からも臓器ができ、さらには生命もできる。言い換えると、iPS細胞から生命を作る。それこそ、古代中国の皇帝が、東の海に浮かぶ島に存在するとされた不老不死の薬を求めて部下を派遣した話と同じです。細胞から臓器そのものを作ろうとする発想が、幾多の生命誕生に立ち会ってきた産婦人科医の私にはどうしても理解できません。

▽特集記事に書かれている「行政によるトップダウンで研究のゴールを決め、そこに向かい突き進むスタイル」にも違和感があります。京都大の山中伸弥教授のノーベル賞受賞後、国は直ちに2012年度補正予算で242億円をiPS細胞研究に投入しました。さらに13-22年度の10年間で総額1100億円の予算を注ぎ込むようです。

これだけ莫大な国民の税金を使う再生医療は、本当に巨大な経済効果を見込めるのでしょうか。臓器そのものを作るのは至難の業に近く、仮に出来るとしてもまだまだ時間が必要でしょう。まして楽観的な再生医療の推進者でも、永遠の命は保証できないはずです。

▽日本経済新聞の2011年11月21日付朝刊が、世界に先駆けて胚性幹細胞(ES細胞)を使用して、ヒトでの臨床試験に取り組んできたアメリカのバイオベンチャー「ジェロン」社が、再生医療から撤退すると報じました。三井物産戦略研究所が発行した2010年9月のレポ‐トは、再生医療分野における事業化の動向について、欧米の大手製薬企業は、1990年代に画期的な治療法として遺伝子治療開発へ参入したが、安全性の確認や開発期間の長期化などの障害が多く、多くの企業が開発を断念した。そのため、ES細胞やiPS細胞を活用した新治療法への研究開発にも慎重と強調していました。

▽ヘルスケア分野に特化したアメリカの市場調査会社「セジデム・ストラテジックデータ」社のユート・ブレーン事業部は、「世界の大型医薬品売上高ランキング」を毎年公表するのを恒例化しています。

これは各メーカーの大型医薬品の売上げを単純に並び替えたランキングではありません。同じオリジナル(新規開発)成分を販売している各社のブランド品の売上げや創薬メーカーのロイヤリティを含めた合計額で世界の大型医薬品売上高のランクをつけています。

▽創薬された1つの成分が、世界中でどれだけ売れたか。その2010年版のランキングがあります。為替レートは2010年、2009年とも年末の米ドル換算値を使い、2010年は1ユーロ=1.3252ドル、100=1.2262ドル(1ドル=81.55)で換算しています。

▽それによると、世界で40億ドル以上のブランド品が、2009年は20製品でした。2010年はノバルティスの抗がん剤「グリベック」と武田薬品工業のARB降圧剤「ブロプレス(欧米名アタカンド)」が40億ドルを超えました。当時は1ドル80円弱。40億ドルなら約3200億円です。

▽ブロブレスは、武田薬品が基本特許を押さえていました。このためARB降圧剤の発売そのものは、アメリカのメーカーの後塵を拝しましたが、巨額の売上高を手に入れました。さてiPS細胞は、年間40億ドルの売上高につながる商品を生み出すでしょうか。

▽私は産婦人科医。特集記事の書き手は40代の中堅記者。2人ともiPS細胞にはそう詳しくないはずです。ただ記者の後ろにはダイヤモンド社という日本のビジネス界をリードする会社があります。中堅記者とはいえ、これほどのスペースを割いて「世界を変えるiPS細胞」を特集する以上、会社の判断がないと世に出ません。ダイヤモンド社はよほど自信があるのでしょう。